10月2日(日)に東京藝術大学美術学部において、教育や文化財修復・保存の現場におられる方を対象とした講演・報告と、 代替品の試用体験ワークショップを開催し、30名以上の方にご参加いただくことができました。

主に絵画用膠として使用されてきた三千本膠(和膠)の製造元が今季をもって廃業し、伝統製法による和膠の供給が途絶えました。 それから約半年が経過した現在、数種類の代替品が開発・販売される状況となっています。

第一回目となるワークショップには6種類の膠を用意し、その使用感を実際に絵の具を溶くなどして試していただくとともに、参加者により積極的な意見交換が交わされました。


     
日時2011年10月2日(日)13:00〜18:00
場所東京藝術大学美術学部 絵画棟4階日本画アトリエ405・407
主催東京芸術大学日本画研究室
広島市立大学日本画研究室
膠文化研究会


プログラム

                             
13:00主催者あいさつ
絵の具の廃棄について
北田克己(広島市立大学日本画研究室)
斉藤典彦(東京藝術大学日本画研究室)
13:10〜14:30膠の試用体験
14:30〜15:00報告「絵画用膠製造と販売の状況」北田克己(広島市立大学日本画研究室)
15:00〜15:50講演「膠の物性について」楠京子(東京文化財研究所)
16:00〜17:30膠の試用体験
17:30〜18:00意見交換


     
試用に用意された6種類の膠報告「絵画用膠製造と販売の状況」 参加者による膠の試用体験















2012年3月末、膠文化研究会として初めての産地調査を行いました。

膠文化研究会姫路市調査(2012年3月)に参加して

橋本 麻里
東京藝術大学大学院
文化財保存学保存科学博士課程

日本の膠製造は皮革産業の周縁に存在してきた。こうした歴史から手工業での膠製造については文献などに取り立てて残るわけでもなく、ともすれば風化しやすい工業である。「接着力が弱くなった」と言われて久しいが、手工業製品である三千本膠の製造中止を受け、そもそも「接着力が弱くなった」と声があがる以前の膠はどのようなものだったのか、はたと疑問に思う。

機械工業になる以前の皮革産業において、膠は何を原料とし、どのような方法で処理され、製造されたのか。おそらく、代々と続いてきた工業形態が、明治期に変化したことにより、その原料から変容した頃が膠のターニングポイントであっただろう。生物由来である膠は、皮革産業の形態が変化する以前に製造されたであろうものが残っていたとしても、それはすでに劣化が進み、最初の物性を保っていないと考えられる。「接着力が弱くなった」とされる以前の膠はどのように製造されていたのか。これらの手掛かりを得るべく、日本の古くからの皮革産業の中心地の一つである姫路の、伝統的な原料の処理方法、皮革製法、膠作りの調査に同行させて頂いた。

姫路市の東には市川という川が流れる。姫路の皮革技術はもともと中国大陸から出雲に入り、その後渡来した人々が市川周辺に定住することで800年頃伝播したというのが主要な説だが、伝播の経緯および年代には諸説ある。姫路に根付いた白鞣し(しろなめし)革は保存状態がよければ1000年もつといわれ、かつては豊臣秀吉が絶賛し、また、ヨーロッパの王侯貴族にも重用された日本が誇る特産品であった。

市川周辺での製革はまず原料の処理に始まる。剥皮は直ちに塩漬けされ、市川周辺に運搬される。塩漬けされた皮は、市川の川岸に広げて晒される。川の水によって川のバクテリアによって毛根が攻撃され緩められる。毛皮面、肉面の表面がちょうど川底の石に付いている藻のような緑色を呈すると、毛も肉片も容易にこそげ取ることができる。晒す場所の水流、水深、水温および期間を見極めることが必要だという。昭和40年頃までは市川で原皮がたくさん晒されていた。しかし、現在その光景はあまりみられない。市川に晒した皮は次に銑刀(せんとう) を用いて脱毛をし、革カンナで脂肪をとり、皮の厚みを揃えていく。我々はこのように川晒しによって処理した生皮から膠を抽出する工程を見学した。 こうして下準備が済んだ生皮を、『革』にするべく白鞣しという工程を行っていく。

白鞣しは現在主流のクロム鞣しが塩基性硫酸クロムを鞣し剤として用いるのに対して、添加するのは少量の菜種油と塩、水である。白鞣しの製法は、脱毛した皮は川の水によって塩が抜けているので、またすぐに塩をまぶし、これを皮の芯まで塩が入るように足で揉みこむ。時間にして48時間ほどだという。その後天日干しと水漬けを繰り返し、菜種油を加えまた揉みこむ。皮の厚みや状態にもよるが、だいたい3か月程度という、現代の製法と比べると長丁場の作業である。こうして揉みこんだ皮は天日干しにした時、さっと一瞬向こう側が見えるほど透明になる瞬間があるのだという。これが「皮が繊維になった瞬間」だという。 こうして作られた白鞣し革は、繊維が切れておらず、繊維が強い。白鞣しという名前のように、白い、皮本来の独特の風合いと色をしている。現代主流のクロム鞣しのように、その製革工程で酸性とアルカリ性の処理を繰り返すことでタンパク質繊維が短く切れていくことがないからであるという。しかし、難点もある。水や熱には弱く、濡れると菌が繁殖し、繊維を食べてしまう。そのため、白鞣革の上から漆を塗布し、強度、耐久性を向上させる技法も発達した。そのほか、日常的に飛脚の手袋、役者の足袋、火消しの半被などに使われてきた。かつて白鞣に使われる動物は、当初、鹿、狸、猪など小動物が主であったという。牛や羊などが使われるようになったのは後世からである。

英知と創造性によって姫路の豊かな地の利を存分に生かし、脈々と受け継がれてきていたこの美しい白鞣し革はここ数十年ですっかり影をひそめてしまった。それは機械工業に圧され、職人として白鞣し革を作り続けてきた人々も一人二人と減っていったことが背景にある。そして今年3月、職人として白鞣革全工程を自らの手と足で作り続けてきた森本正彦氏が亡くなった。現在日本のあちらこちらで起きている後継者不足の伝統が多分にもれずここにもある。 しかし、白鞣し革の美しさや特性を肌身で知る人々により、また盛り返そうとする気運も高まりをみせている。現在の革にはない特徴を有する白鞣し革が確固として再び産業となれば、工芸材料として汎用に用いられるだろう。伝統は革新の連続だと聞いた。一つの伝統材料が広く認知されれば、他の伝統がこれを取り込み、革新につなげる可能性を内包している。さらに、革文化そのものがさらに豊かになるであろうことは言うまでもない。膠のみならず、予想だにしないところに広く良い潮流を作るであろう、白鞣し産業の復活を期待している。




















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